ピアノを止まらずに弾くコツ「一ではないところからやり直す」?

図書館の新着リストで、なんとなく気になった『介護するからだ』という本を読んだ。ピアノや音楽と関係ない本を読むのは久しぶりかもしれない。

紹介文(↓)にあった、「人間行動学者」が人間の動きから読み取った内容にちょっと興味をひかれたのだ。まぁ「なんとなく…」というレベルではあるが…。

「介護行為が撮影されたビデオを1コマ1コマ見る。心なんて見ない。ただ動きを見る。そこには、言語以前にかしこい身体があった。目利きの人間行動学者が、ベテランワーカーの「神対応」のヒミツに迫る。」



読んでみると、けっこう面白いことがいろいろ書いてあるのだが、いつの間にかピアノのことに結びつけている自分を発見して苦笑いするところもあった。

その一つが、長年の課題である「止まらずに弾く」ことに関連ある?かもしれないこと。

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それは「食事介助」の話なのだが、初心者がやると1時間かかるところをベテランは15分でやってしまうという。その理由を行動観察から解き明かすわけだ。

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分かってきたのは、初心者はうまく行かない場合、その度に仕切り直して「一からやり直す」のに対して、ベテランはうまく行かないことを予知すると、途中から、つまり「一ではないところからやり直す」ことをやっているらしい、ということ。

具体的に言うと、食べ物を箸でつかんで口元へ持っていくのだが、相手が口を開けずに食べるのを拒否したときの対応に差があるそうだ。

初心者は、無理やり口に近づけて、相手の「拒否動作」を完結させてしまう。介護している方も一旦動作を止めるしかない。なので、もう一度食べてもらうためには「一から」仕切り直すことになる。

ところがベテランは、箸を近づけたときに、相手が頭を後ろに引くような「拒否の兆し」を見せると、すっと箸を引っ込め、お茶をとって勧めるなどの行動をとる。つまり、相手の「拒否動作」を完結させない。

この「一ではないところからやり直す」方法によって「食事介助」は停止することなく続けられていく…。

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これを読みながら、この介助初心者の「一からやり直す」方法が、私のピアノの「止まってしまうクセ」に似ていると思った次第…(^^;)。

つまり、私の場合、ちょっとでもミスすると、あるいはミスしそうになると、そこで思考も弾く動作も停止してしまって、少し前から仕切り直して弾くことが多いのだ。

指がもつれただけの致命的でない「ニアミス」の場合にも、例えば、音符通りに弾けているのだが、音の大きさが想定外に大きかったり小さかったりした場合とか、音の響きが気に入らない場合にさえ止まってしまうのだ。

悪いクセだと思いながらも、なかなか治らない…(^^;)。これまでに何度も記事を書きながら、まとめ記事(↓)まで作りながら、いまだに…。

《ピアノ練習のヒント:止まらずに弾く》

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苦笑いのついでに、私の「止まるクセ」の場合、「一ではないところからやり直す」という方法はあるのか?少し考えてみた。

まず「ニアミス」の場合、これは意志の問題だろう。何が何でも止まらない!続ける!という強い意志。それと「出てしまった音は戻せない」という割り切り?も必要かもしれない。

あとは「止まって音楽そのものを台無しにするより、多少キズがあっても一つの音楽を完結させる方が大事」ということを、日頃から意識するようなことも…。

では、ホントに間違えた音を出してしまったときには…?

そのときは、そのミスの状態から「何げない顔をして次の音符に移る」という方法しか思いつかない。これはなかなか難しそうな気がするのだが、プロの演奏ではときどきお目にかかる技術?だ。

一流のプロには「ミスを予知し修正する」能力がある、という話を『ピアニストの脳を科学する』という本で読んだことがある。瞬間的にミスタッチする音を小さく弾いたりすることができるそうである。

そんな技術は身につきそうもないし、そのための練習などもありそうな気がしないので、それは諦めるしかないだろう。

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ちなみに、このベテラン介護士のように「一ではないところからやり直す」ためには、「粘り強さ」が必要だと書いてある。

その「粘り強さ」には、小さなミスをそのままにしない(あるいは悪化させない)、逆にそのミスを新たな「手掛かり」として次につなげるという、細かいレベルでの(コンマ何秒の世界での)観察と調整が含まれているようだ。

外から見ていると、その動きはとてもスムーズで見事なのだが、実際には細かいミスとそれに対する微調整の繰り返しで成り立っているらしい。(ピアノも同じ?)

ピアノ演奏における「粘り強さ」でも考えてみるか…。

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おまけ:もうひとつ、ちょっと面白いと思ったこと。人に「心」はあるか?という設問。

「最後はやっぱり、心がこもっているかどうかなんですよね」

この言葉は介護についてよく言われるひとつの例として出されているのだが、これはピアノの演奏について言われていてもおかしくない。

著者は「心のあるなし」よりも「人はいかに相手に"心のようなもの"を見出すか」に関心をよせる「人間行動学者」であると自認しているようである。

これを「人はいかにその演奏から"心のようなもの"を聴き取るか」と言い換えると面白いと思う。

つまり、聴いている音楽というのはしょせん「物理現象」に過ぎない。その物理現象でしかない音響から「心」という言い方に代表される「表情」「感情」「思い」「喜怒哀楽」「人間性」などを感じるとすれば、それは何故なのか、何を手掛かりに感じているのか?

ピアノの練習(レッスン)での「心を込めて」「感情を込めて」「こういう気持ちになって」…などという言い方があまりピンとこない私にとって、とても興味深い問題なのだが、今日はちょっと疲れてきたので、またの機会(があれば)に考えてみようかと思う ♪







私の鑑賞スタイル:ピアノ演奏を聴くときのモード?

ホールでスタインウェイを試弾するときに弾く曲を4曲練習中であるが、その4曲のお手本演奏として、次の4つの音源をときどき聴いている。

Irina Lankova plays Schubert Klavierstücke D. 946 No. 2 in E Flat

Debussy - Suite Bergamasque, I. Prelude

Barenboim on Beethoven "Pathetique" 2nd movement

András Schiff - Bach. French Suite No.4 in E flat major BWV815


バレンボイムのベートーヴェンとシフのバッハは、私の中ではある意味「定番」で、音楽(芸術)として「鑑賞」の対象として聴いてきたもの。

ドビュッシーのベルガマスクは、この「前奏曲」を練習したときに参考(レファレンス音源)として聴いていたもので、弾いているのは 15歳の Konstanca Dyulgerova という女性。

鑑賞というより、自分が練習するための「お手本」として聴いていた。でも、いま聴いても飽きないので、鑑賞に耐えるだけの演奏なのだとは思う。

シューベルトを弾いている Irina Lankova というピアニストは、初めて聞く名前で、今回いくつかの音源を聴いている中で見つけたのだが、ちょっと「男前」?な演奏(女性ピアニストだけど…)で気に入っている。

最初は「お手本」として、分かりやすい気がして選んだのだが、何度か聴いているうちに意外といいかも、と思い始めた。シューベルトの「くどさ」を感じさせない気持ちのよい演奏だと思う。シューベルトらしくないという感想を持つ人もいるかも知れない…。

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で、ふと思ったのは、ピアノ音楽を聴くときに、こちらの聴き方の「モード」も少しづつ違っているのかも知れない、ということ。

聴くことを楽しむ、いい音楽を聴かせてほしいと思いながら聴く「鑑賞」。自分が練習することを想定しながら、たまには楽譜を見ながら聴く「参考視聴」?(お手本型)。

それと、実はいまクライバーン・コンクールのライブ(medici.tv)を聴きながら、この記事を書いているのだが、この聴き方は「探索」型かも知れない。

つまり、お気に入りのピアニストや曲と出会えると嬉しいな…という感じで、やや聴き流しているかも知れない…(^^;)。失礼!→いま弾いているダニエル・シューくん…(↓)。でも「BGM」型ではなく、ちゃんと耳をそばだてながら聴いているので…。


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では、次は Yury Favorin なので、この辺で…。







日本クラシック界の「ドメスティックな専門家」vs「音楽ファン」?

たまたま見つけた次の記事がちょっと面白かった。

✏️「フジ子・ヘミング現象」の何が問題なのか?

2011年の古い記事だし、フジ子・ヘミングにはまったく興味がないし、全くの偶然で見つけたのだが…。面白いと思ったのは日本クラシック界における「ドメスティックな専門家」vs「音楽ファン」という対立構造の話。

この記事で言う「ドメスティックな専門家」というのは「国内演奏家+音楽教育者+音大生」で、「音楽ファン」というのは、国内の演奏家には見向きもせず「ベルリン・フィルやメットオペラの来日公演に一枚3万円とか6万円といったカネをはたく音楽ファン」のこと。

この両者は「犬猿の仲」らしいのだが、この記事によると「フジ子・ヘミング現象」についてだけは、この両者の意見が「全否定」ということで一致している、とのこと。

で、その理由について、ピアノ演奏のスタイルの話など色々書いてあるのだが、それもまぁ、どうでもいい話である…。


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面白いと思ったのは、私が日本のクラシック音楽界に対して何となく感じている不満を、「ドメスティックな専門家」と「音楽ファン」という2つの言葉でくっきりと切り出してくれたところである。

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定年退職後、ピアノを独学で始めて、いろんな曲をいろんなピアニストで聴いた。「お気に入り」ピアニストを探すこともやってみた。そして、ピアノ音楽のことを理解するため、練習方法のヒントを得るため、いろんな本やネットの情報を読み漁った。

そうした中で、「日本のクラシック音楽界」にはあまり期待できないと思うようになってきた。残念なことではあるが…。

ピアノコンクールで日本人を応援しようと思っていても、なかなか「お気に入り」のピアニストには遭遇しない。プロの日本人ピアニストを探してみても、ガッカリさせられることが多い。ピアノ奏法に関する本も、本格的なものはほとんど海外の本だ。

そういう状況に対して、「ドメスティックな専門家」という言葉が妙に「腑に落ちた」のである。日本国内だけの狭い世界で「活躍」している「専門家」たち…。世界に通用するレベルには、なかなか…。

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一方、コンサート情報を探したり、クラシック音楽を聴くヨーロッパ旅行(パッケージ・ツアー)を探したりしても、そのほとんどがオーケストラやオペラで、しかも「定番」プログラムが圧倒的に多い。

「3万円とか6万円」のチケットを買って「古典芸能」のような型にはまった巨匠や有名オーケストラの演奏を楽しむ「音楽ファン」(上記記事の定義)の存在というのが、これもまた「そうなんだよな〜」と納得してしまったわけだ。

ピアノ音楽ファンとしてグチを言わせてもらうと、ソコロフのピアノ・リサイタルを楽しむパッケージ・ツアーなどはないし、来日する海外ピアニストは限られている。日本にはまともなピアノ・フェスティバルさえない。

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ところで、上の記事を読んでいて、もう一つ「フジ子・ヘミングのファン」的なグループもあるんだろうと思ったのだが、これはどういう人たちなのかよく分からない。日本人の好きな「物語性」とか「浪花節」とかいうキーワードが含まれている気はするのだが…。

それと、もう一つ気になったこと。「ドメスティックな専門家」や「音楽ファン」でもなく、ましてや「フジ子・ヘミングのファン」などではない私は、どんなカテゴリに属するのだろうか?

一応「クラシックピアノ音楽ファン」のつもりなのだが、もしかすると「日本のクラシック音楽界」(ファンや生徒も含む広義の…)にさえ属さない「門外漢」なのか…(^^;)。







ピアノの「いい音」「いい演奏」再々…考?

最近、2つのピアノコンクール(モントリオール、ルービンシュタイン)の優勝者の演奏を聴いて、久しぶりにピアノの「いい音」「いい演奏」って何だろうと考えてしまった。

《モントリオール・コンクールの優勝はZoltán FEJÉRVÁRI ♪》
《ルービンシュタイン・コンクール、優勝はシモン・ネーリング》

これにはもう一つ伏線?みたいなものがあって、それはラフォルジュルネで聴いたフランソワ=フレデリック・ギィのベトソナ。音の塊がうねるような、ややペダルの多い音で音楽をドライヴしていくような演奏。

《LFJ:フランソワ=フレデリック・ギィのベトソナ ♪!?》

この記事に次のようなことを書いている。

「音符の一つ一つが見えずに『音楽』が前面に出てくる演奏と、逆に音符の一つ一つはしっかり弾けているのだが『音楽』が聴こえてこない演奏、みたいなとらえ方もあるかもしれないと思った。(一度考えてみたい…)」

…で、久しぶりにモヤモヤおじさん登場となった。

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実は1年以上前に似たようなことを考えて(感じて)いる。内田光子さんのディアベッリ変奏曲を聴いたときの感想だ。

《ピアノの音響の可能性「音の塊」♪》

この記事であれこれ書いているが、要するに、それまでの私の「いい音」「いい演奏」というのは「一つ一つの音がきれいな音でくっきり聴こえる演奏」であったのだが、内田光子さんの演奏でそれが覆された、ということ。

それは、「『音の塊(かたまり)』の存在感のようなもの。…細かい音の速いパッセージがまとまって『音の塊』のように響いてくる」演奏であった。

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「一音一音くっきり」と「音の塊」について、先に結論を言ってしまえば、これはどちらがいいか?という問題ではなく、両方あるというのが答えだと思う。

音楽を表現する手段・材料として「適材適所」?的に、表現したい音楽に対して、正しい表現方法としての「一音一音が際立ったクリアなフレーズ」もあれば「音の塊や音響」による表現もあるのだと思う。

くっきりした音にもクリスタルみたいなものもあれば、綿毛のような音もあるだろう。

音の塊には、強靭な響きもあれば靄(もや)のように空間に漂う音響もあるだろう。和音のように縦の響き(ヴォイシングやペダリングや倍音)もあれば、速いパッセージなどを微妙なペダリングで混ぜ合わせるような響きもあるだろう。

ベートーヴェンのダイナミックな響きも好きだが、ドビュッシーの、何とも言えないきらめきを含んだ音の重なり・余韻も大好きだ ♪

こういった多彩な音のあり方は、どちらが優れているといったものではない。

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ところが、今回感じたことは、もう少し深い問題のような気がしている。つまり「音楽」が聴こえてくる演奏なのかどうか?という…。

音符の一つ一つはきれいな音でしっかり弾けているのに「音楽」が聴こえてこない演奏、というものが存在するということを体験してしまった、と感じている。

ここで「音楽」というのは、聴き手が演奏から受け取りたいと思っている「価値」みたいなものである。

音楽を楽しむ人が、無意識であっても、何となく思っている音楽の本質というか、音楽の良さの核心部分というか…。人それぞれに、何かしら音楽から受け取りたいと思っている「贈り物」があると思う。

で、その「音楽」はきれいな音や音の塊といった材料や、ダイナミクス(強弱)やアゴーギク(テンポの微妙な変化)などを「上手に構成する」だけでは、つまり素材の積み上げ方式ではなかなか創り出すのが難しいものかもしれない。

その「秘密」が何なのかよく分からないが、「音楽」が聴こえてくる演奏とそうでない演奏があることは確かである。それはピアノが弾けない聴き手にも判ることなのだ。

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で、素人の耳学問(音楽も音楽論も…)レベルではあるが、思ったことがある。それは(失礼を承知で言うと)、ピアニストの中には次のことを誤解している人がいるのかもしれない、ということ。

①楽譜通りに弾くべし
②すべての音が聴衆に届かなくてはならない


①はよく言われることである。が、「楽譜通り」というのは、作曲者が楽譜を通して伝えたかった(表現したかった)ことを読み取って、それを実際の音としてどう再現するか、ということだと思う。楽譜に記号として記入してある音符や記号を、そのまま「正しく」再現することではないと思う。

もしそうであれば、ロボットでも再現できるし、最近はやりの "AI" であればもっとそれらしく演奏するかもしれない。実際、「音楽」が聴こえてこない演奏は、どこかロボット的な演奏に聴こえてしまうこともある。

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②も、これ自体はとても正しいと思う。私の場合、『バレンボイム音楽論』という本(↓)を読んだときに、すこし分かった気がした。



バレンボイムはこの本で「可聴性」と「透明性」という言葉で説明している。つまり、音楽作品の演奏においては「すべての音が聴こえなくてはいけない」し、「音楽の構造が明確に耳で聴きとることができなくてはならない」ということだと思う。

ただし、それは人間の耳の「聴覚」がどう聴きとるかということにも大きく関係しているし、作曲者が聴衆にどういう音を聴かせたかったかということにも関係しているだろう。

ここで、その辺りを説明する能力は私にはないが、少なくとも、「すべての音が聴こえる」ということは、一つ一つの音符の存在が分かるように、楽譜が想像できるように演奏することではないだろう、ということは言える。

参考
〈「バレンボイム音楽論」:音と思考(2/2)〉
〈「バレンボイム音楽論」:私はバッハで育った〉

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…と、例によって?ちょっと理屈っぽくなって来たので、この辺にしておきたいと思う。

いずれにしても、ピアノの「いい音」「いい演奏」とは何か?というのは、私にとってずっと考えていきたい問題である。答えはないかも知れないが、少しずつでも自分の納得できる場所に近づければ…と思っている…(^^)♪

もちろん、「いい音」「いい演奏」というのは、正確にいうと「私の好きなピアノの音・演奏」ということである。







音楽の魅力とイチゴの甘さ ♪

イチゴを食べながらふと考えた。音楽の魅力、音楽を聴いていいな〜と思うところは、イチゴで言えば甘さ(美味しさ)に当たるのかな?…と…(^^)。


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酸っぱいイチゴも甘いイチゴも「イチゴ」であることに変わりはない。でも、できれば甘くて美味しいイチゴを食べたい。

下手なゴルトベルクも上質のゴルトベルクもバッハの作品であることには変わりはない。でも、できれば心から「これいいな〜♪」と思える名演を聴きたい。

家庭菜園でも「イチゴ」の形をしたイチゴ 🍓を作ることはできる。でも、売っているイチゴのように甘くて美味しいイチゴを作ることはなかなか難しい。

ゴルトベルクも楽譜通りに音符をたどれば、ある程度ピアノの弾ける人には「ゴルトベルク」の形をした演奏をすることはできるだろう。(私には無理だけど…(^^;)…)でも「いいな〜」と思えるゴルトベルクを奏でることはなかなか難しい。

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いい演奏を聴いたとき、それを言葉で伝えることに四苦八苦している。「いいな〜♪」とか「素晴らしい」とか「感動した」とか、ありきたりな、中身が伴わない言葉になりがちだ。

イチゴの場合、甘い・甘くないというのはほとんどの人が共通に感じることができる。だから「このイチゴ甘いね〜♪」と言えば、その美味しさはほぼ伝わる。

一方、「この音楽いいね〜♪」と言っても、どういう風にいいのかはなかなか伝わらない。音楽には、イチゴの場合の「甘さ」みたいな共通の基準(モノサシ?)がなさそうなのだ。

それだけ、音楽の「良さ」には多様性があるというか、人それぞれに感じ方が違うということなんだろうけど…。


でも、イチゴの「甘さ」に対する音楽の良さを表す言葉があると、音楽について話をするときに便利、というかもっと理解し合えるようになるかも知れない。

「彼の弾くゴルトベルクはとても甘くて●●●いいよね〜」…とか…(^^;)?

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もちろん、イチゴの美味しさが甘さだけで決まるわけではないように、たとえ音楽の良さを測るモノサシがあったとしても、それだけで決まるわけではないだろう。

味に関しては、甘味だけではなく酸味とか苦味とか、いくつかのパラメータでこんな風に(↓)レーダーチャートで表したりすることがある。

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音楽についてこういうチャートを作るとしたら、どんなパラメータがいいのだろう? これは、暇なときに考えるネタとしては面白いかも知れない。

音(音響)、ハーモニー、旋律、リズム、ダイナミックレンジ、語り口(音楽のニュアンス・表現)、音楽の構成、心地よさ、…。う〜m、いまひとつ面白みにかけるかも…。

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ところで、イチゴ農家の人たちはおそらく「美味しさ」「甘さ」「大きさ」などをどうやって作り出すか、いろんな技術やノウハウを持っておられると思われる。

それはたぶん文章にできるようなことのはずだ。人に教えたくない秘伝?みたいなものは別として…。

ピアノ音楽の演奏においても、すぐれたピアニストは、どうやって「良い」音楽(演奏)を作り出すかについて、たくさんの技術やノウハウを持っているのだろう。

そういう技術やノウハウをまとめた「秘伝書」みたいなものはないものだろうか?

素人考えで何となく感じているのは、ピアノ演奏の教本や解説本では、どうやって「イチゴの形を作るのか」ということは書いてあるのだが、どうやって「イチゴの甘さを出すのか」についてはあまり書かれていないような気がする。(私の読み方の問題?)

もちろん、音楽の「良さ」は技術やノウハウだけで作れるものではなく、それ以上に「音楽性」や「精神性」「人間性」のようなものも必要だとは思うのだけど…。

だけど、どんなに高邁な精神性や豊かな音楽性を持っていたとしても、最終的にピアノという楽器からその音(音楽)を引き出すのは人間の身体動作のはずで、それは(表現のための)技術なのではないだろうか…?

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…とイチゴから始まって、自分でもよく分からない深みにはまっていきそうなので、今日はこの辺で…(^^;)//