ピアノの「いい音」「いい演奏」再々…考?

最近、2つのピアノコンクール(モントリオール、ルービンシュタイン)の優勝者の演奏を聴いて、久しぶりにピアノの「いい音」「いい演奏」って何だろうと考えてしまった。

《モントリオール・コンクールの優勝はZoltán FEJÉRVÁRI ♪》
《ルービンシュタイン・コンクール、優勝はシモン・ネーリング》

これにはもう一つ伏線?みたいなものがあって、それはラフォルジュルネで聴いたフランソワ=フレデリック・ギィのベトソナ。音の塊がうねるような、ややペダルの多い音で音楽をドライヴしていくような演奏。

《LFJ:フランソワ=フレデリック・ギィのベトソナ ♪!?》

この記事に次のようなことを書いている。

「音符の一つ一つが見えずに『音楽』が前面に出てくる演奏と、逆に音符の一つ一つはしっかり弾けているのだが『音楽』が聴こえてこない演奏、みたいなとらえ方もあるかもしれないと思った。(一度考えてみたい…)」

…で、久しぶりにモヤモヤおじさん登場となった。

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実は1年以上前に似たようなことを考えて(感じて)いる。内田光子さんのディアベッリ変奏曲を聴いたときの感想だ。

《ピアノの音響の可能性「音の塊」♪》

この記事であれこれ書いているが、要するに、それまでの私の「いい音」「いい演奏」というのは「一つ一つの音がきれいな音でくっきり聴こえる演奏」であったのだが、内田光子さんの演奏でそれが覆された、ということ。

それは、「『音の塊(かたまり)』の存在感のようなもの。…細かい音の速いパッセージがまとまって『音の塊』のように響いてくる」演奏であった。

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「一音一音くっきり」と「音の塊」について、先に結論を言ってしまえば、これはどちらがいいか?という問題ではなく、両方あるというのが答えだと思う。

音楽を表現する手段・材料として「適材適所」?的に、表現したい音楽に対して、正しい表現方法としての「一音一音が際立ったクリアなフレーズ」もあれば「音の塊や音響」による表現もあるのだと思う。

くっきりした音にもクリスタルみたいなものもあれば、綿毛のような音もあるだろう。

音の塊には、強靭な響きもあれば靄(もや)のように空間に漂う音響もあるだろう。和音のように縦の響き(ヴォイシングやペダリングや倍音)もあれば、速いパッセージなどを微妙なペダリングで混ぜ合わせるような響きもあるだろう。

ベートーヴェンのダイナミックな響きも好きだが、ドビュッシーの、何とも言えないきらめきを含んだ音の重なり・余韻も大好きだ ♪

こういった多彩な音のあり方は、どちらが優れているといったものではない。

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ところが、今回感じたことは、もう少し深い問題のような気がしている。つまり「音楽」が聴こえてくる演奏なのかどうか?という…。

音符の一つ一つはきれいな音でしっかり弾けているのに「音楽」が聴こえてこない演奏、というものが存在するということを体験してしまった、と感じている。

ここで「音楽」というのは、聴き手が演奏から受け取りたいと思っている「価値」みたいなものである。

音楽を楽しむ人が、無意識であっても、何となく思っている音楽の本質というか、音楽の良さの核心部分というか…。人それぞれに、何かしら音楽から受け取りたいと思っている「贈り物」があると思う。

で、その「音楽」はきれいな音や音の塊といった材料や、ダイナミクス(強弱)やアゴーギク(テンポの微妙な変化)などを「上手に構成する」だけでは、つまり素材の積み上げ方式ではなかなか創り出すのが難しいものかもしれない。

その「秘密」が何なのかよく分からないが、「音楽」が聴こえてくる演奏とそうでない演奏があることは確かである。それはピアノが弾けない聴き手にも判ることなのだ。

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で、素人の耳学問(音楽も音楽論も…)レベルではあるが、思ったことがある。それは(失礼を承知で言うと)、ピアニストの中には次のことを誤解している人がいるのかもしれない、ということ。

①楽譜通りに弾くべし
②すべての音が聴衆に届かなくてはならない


①はよく言われることである。が、「楽譜通り」というのは、作曲者が楽譜を通して伝えたかった(表現したかった)ことを読み取って、それを実際の音としてどう再現するか、ということだと思う。楽譜に記号として記入してある音符や記号を、そのまま「正しく」再現することではないと思う。

もしそうであれば、ロボットでも再現できるし、最近はやりの "AI" であればもっとそれらしく演奏するかもしれない。実際、「音楽」が聴こえてこない演奏は、どこかロボット的な演奏に聴こえてしまうこともある。

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②も、これ自体はとても正しいと思う。私の場合、『バレンボイム音楽論』という本(↓)を読んだときに、すこし分かった気がした。



バレンボイムはこの本で「可聴性」と「透明性」という言葉で説明している。つまり、音楽作品の演奏においては「すべての音が聴こえなくてはいけない」し、「音楽の構造が明確に耳で聴きとることができなくてはならない」ということだと思う。

ただし、それは人間の耳の「聴覚」がどう聴きとるかということにも大きく関係しているし、作曲者が聴衆にどういう音を聴かせたかったかということにも関係しているだろう。

ここで、その辺りを説明する能力は私にはないが、少なくとも、「すべての音が聴こえる」ということは、一つ一つの音符の存在が分かるように、楽譜が想像できるように演奏することではないだろう、ということは言える。

参考
〈「バレンボイム音楽論」:音と思考(2/2)〉
〈「バレンボイム音楽論」:私はバッハで育った〉

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…と、例によって?ちょっと理屈っぽくなって来たので、この辺にしておきたいと思う。

いずれにしても、ピアノの「いい音」「いい演奏」とは何か?というのは、私にとってずっと考えていきたい問題である。答えはないかも知れないが、少しずつでも自分の納得できる場所に近づければ…と思っている…(^^)♪

もちろん、「いい音」「いい演奏」というのは、正確にいうと「私の好きなピアノの音・演奏」ということである。







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